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保護者の方へ

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オリンピック選手との出逢い①

ゴールドメダリストとの思い出です。大きな影響を与えて頂きました。
オリンピック選手5生きていく中で、私たちは実に多くの人々と出会い、その出会いを通して数多くのことを学んでいきます。
私にとって生涯の宝といえる出会いの一つが陸上王国日本を築いた南部忠平先生との出会いです。
1928年に開催されたロサンゼルスオリンピックにおいて3段跳びでは世界新記録で金メダル、走り幅跳びで銅メダルを獲得した天才ジャンパーであることはみなさんよくご存じだと思います。また、晩年は倉吉にある鳥取女子短期大学(現鳥取短期大学)の学長として鳥取県に新しい風をもたらしてくださった。
天性のバネを生かした豪快なジャンプ。走り幅跳びでの当時の世界記録7m98cmはその後40年間日本記録として破られなかったことは如何に偉大なアスリートであったかの証であります。アムステルダムオリンピックの女子陸上800mの銀メダリスト・人見絹枝さん、三段跳び金メダリスト・織田幹雄さんや「暁の超特急」吉岡隆徳さんなどとともに日本陸上界の黄金時代を築き上げた一人です。もちろん私などは当時この世には、かけらも存在しておりませんので当時のことはテレビなどのオリンピック特集でしか知る由もなかったわけです。しかし、先生から聞く先人達の活躍はライブのように体感することができました。現在はトライアスロン競技の関係で走ることは好きになってはいますが、元々は陸上競技とは全く関係ない生活を送っていた私にとって不思議な出会いがやってきたのです。京都での学生時代、大学でお会いしたことのある先生が倉吉に学長として来られた。加えてその時、渡していた私の帰省先をしっかり残しておられて先生の方から「こっちに縁あって来たから、一度遊びにおいで。」との知らせ。私のような者をよく覚えておられたなあと思いながら倉吉の学舎を訪ねて再会を果たすことができたのです。
オリンピック選手6陸上競技をしていなくても先生が雲の上の人であることはよく分かっていましたが、気取らないその人柄に惹かれてよく遊びに行ったものでした。米子に気の知れた仲間と「米忠会」という勝手な名前の会を作り先生を囲んでよく飲み歩きました。「酎ハイってやつよく聞くが、どんなものだ?」「焼酎を炭酸で割ったやつです」「忠平が酎ハイを飲む。これが本当の忠ハイだ。」なんて人を笑わせながらワイワイやっていたものです。
「ホテルとりましょうか?」「そんなのとらなくても君の家でいいじゃないか。」ということで狭いアパートにも泊まっていただきました。コーチのいなかった当時、速く走るための動きを知るため一日中機関車の動きを見ていた話やオリンピックで金メダル取った話、大好きだったオートバイ(愛用のハーレーダビッドソンは吹田の自宅の玄関横に置いてありました)の話、天皇陛下(当時は皇太子御一家)に招待されて御所で夕食会をご一緒されたときの話など私たちが体験することもできない世界の話に聞き入ったものです。
オリンピック選手7私にとっては先生から聞かされる話は、すべて夢の世界の出来事のようでした。
往事を知らなかったし私たちも若かった分怖いもの知らずでだったのでしょうがなによりも先生の周囲を優しく包み込むおおらかさの中で自由にさせてもらっていたのです。ゴールドメダリストだとかいった肩書きは全く感じさせない自然体の姿。周囲の人々に対する細やかな配慮。アスリートとしてだけでなく全人格的に一流というのは先生のような人を指すのだと思います。
「スポーツができるからといってどういうことはないけど、スポーツっていいもんだよ。」「俺が足が速い速いっていわれたけど、馬にゃかなわないよ。」40歳を過ぎてスポーツに大きく関わるようになった今、先生がおっしゃっていたことと同じことを言っている自分に気がつき、改めて先生の影響の大きさを感じます。
60歳近くも年齢が違うはずなのに全く年齢差を感じない。一緒にいたのは明治生まれの「青年・南部忠平」さんだったのです。「楽しくやろうや、人生は楽しくなくっちゃ」「スポーツは楽しんでやるもの」先生の口癖でした。
スポーツ選手にはいろいろなタイプの人がいると思います。選手としてのみ輝く人、選手時代より引退後輝く人。しかし南部先生は生涯のみならず他界された今も多くの人々の心の中にその輝きを放つ真のアスリートであると思います。アスリートは、競技の成績だけで評価され輝くものではない、一人の人間としてスポーツから多くのものを学び、そしてそれを表現していくことで輝き続けるのです。南部先生はアスリートが目指すべき真の姿なのではないでしょうか。