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オリンピック選手との出会い②

小原選手がオリンピック選手になるまでの物語です。
オリンピック選手 オリンピック選手との出会い②
アジアの鉄人・小原工

丸顔の小柄な青年、どこにでもいるスポーツ好きな好青年、これが彼との出会いの印象であった。それは皆生大会出場目指して自転車の練習会、まだレースウェアもそろっておらず、5月の連休明けの暑い日にもかかわらず冬用の長いタイツをはいて汗だくになってペダルを漕いでいたのをよく覚えている。
中学までは水泳の長距離選手、高校・大学では水球の選手として全国の舞台で活躍していたから泳力には絶対の自信があり、その勢いを持続すれば初出場の皆生大会でも上位に食い込めると確信していた。しかし、結果はさんざんたるものでマラソンでは地面を見つめながら歩いてゴール。デビュー戦を最悪の結果で終わってしまった。しかしこの挫折からすべてが始まった。
何事にも一生懸命な性格もあって彼はその後トライアスロン競技に魅入られたように入り込んでいった。失敗の中から多くを学び、雪辱を果たすためにトレーニングに打ち込んだ。結果、翌年見事に準優勝そしてその翌年第12回皆生大会で悲願の優勝を果たした。更にその年の第1回アジア選手権に出場した彼は、並み居るプロのトップ選手を押さえ見事に優勝を果たしたのである。
然し、皆生大会優勝とはいえ全国的にはまた無名に近い選手の優勝に当時国内無敵であった準優勝の中山選手がクレームを付けた。水泳をトップであがり自転車で快走する彼の前を報道用の車両が規定以上の間隔をあけずに走ったことで空気抵抗が少なくなり彼に有利に働いたというものだった。
レースの様子を見ていない選手からも中傷に近い声も上げられた。「皆生大会で優勝したと言っても、小原が日本一になれるわけがない。」専門誌にも取り上げられた。「汚れた優勝」と。華々しい優勝から一転して冷たい視線を受けながらの異様な雰囲気の表彰式。小原はじっと耐えた。これに地元米子の仲間は猛反発した。「小原の力を認められないのなら、真の実力を見せてやろう!」地元のトライアスリートが一致団結、「小原工を世界選手権に送る会」が結成された。当時まだ県の非常勤職員であった彼の収入では用品や遠征の費用は大きな負担だった。仲間が強化費をカンパした。自転車とマラソンのエキスパートがトレーニングパートナーとして共に汗を流した。彼の周りのすべての人たちがサポーターとして支えた。そして一冬越して翌年5月に行われた世界選手権代表選考レース、彼はそれまでの鬱憤をはらすような素晴らしいレースで2位以下を大きく引き離し優勝。見事に初めて世界選手権代表になった。もう誰も彼の実力を疑うものはいなくなった。そしてその後の活躍は、多くの皆さんの知るところとなったのである。
大きな声援に支えられながら、オリンピックに出場することを夢見て公務員の職を捨て、地元で応援してくれた仲間から離れ実業団(チームテイケイ・兵庫県)に移った時は人生で最大の転機であったと思う。然し選手として成長していく中で彼は自分を今まで支えてくれた人々に結果という形で恩返しをしてきた。レースの結果や日常の様子はこまめに連絡してくれていた。お世話になった人々への謝恩は郷里を離れても全く変われなかった。
オリンピック選手2そして夢にまで見た2000年シドニーオリンピック、9月17日シドニーブルーの空は澄みきっていた。沿道を埋める17万人の人、人、人。すべてが桁違いのスケールで嫌が上でも興奮は高まる。得意の水泳を好位置で終了し自転車の2周回目、応援団全員一瞬息を呑んだ。大集団を後ろに引き連れトップをゆく小柄な彼の姿が視界に飛び込んできたのだ。海外の大柄な選手の前をゆく彼の姿は、本当にまぶしかった。そしてそれが応援し続けてきたすべての人達に対するメッセージであることもすぐ分かった。「僕は元気でがんばっています!」と。声援とも絶叫ともつかない心の叫びの後、みんなで泣いた。こみ上げてくるものが涙となって溢れてきた。彼は全身でメッセージを送ってくれたのでした。
レースは21位と目標とした入賞は逃したものの、私たちにとっては金メダルと同じくらい輝かしい成果であった。レース後の彼の表情は夢を現実にして、更にそれを達成した満足感で澄んでいた。
オリンピック選手3然し、その後もう一つ素晴らしい出来事が待っていた。第1回アジア選手権で彼の優勝にクレームを付けた中山選手、彼はあの因縁のレース以降も小原選手と日本のトップを争う激しいレースを繰り返していた。しかし、小原選手が連勝を続ける中、トップの座を彼に譲りコーチとして日本代表を支援していた。その彼が、レース終了後話しかけてきた。「小原はすごいやつですよ。俺はうれしい、あの時負けたのが、小原でよかった。小原以外のいつ消えていくかわからないようなやつに負けていたら、今でも悔しい思いをしています。30才を越えても日本のトップ、世界と戦える奴に負けたのがうれしいんですよ。」彼も目にいっぱい涙をためていた。トップを争うプライドの戦いの中でチャンピオンが次代を任せたのが小原選手だったのだ。
シドニーオリンピックの興奮もやっと収まった2001年3月その年度、最も活躍した選手に贈られる日本グランプリの表彰式、小原選手は6年連続の最優秀選手賞を獲得した。その会場の一番後ろで一番大きな拍手を贈って心から受賞を喜んでいる中山君の姿があった。

遅いよりは早いほうがいい、下手より上手な方がいい。スポーツはみんなそうなのです。
でも、それだけじゃ何か足りないのです。その体験を通して何を学んでいくか、スポーツはそれを学ぶための一つのツールなのです。
小原君と彼を取り巻く人間模様の中で一人の青年の成長とそこから生まれる出会いのすばらしさを教えてもらったことは私にとって貴重な体験となりました

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